「おんなじ命を持つにんげんですよ」(RBBTODAY 2015年12月1日(火) 20時57分)
茨城県の教育委員の発言が大きな問題になりました。
「(障害の有無が)妊娠初期にわかるようにできないのか」「茨城県では減らしていける方向になるといい」などと発言。批判が殺到したため、翌日に発言を撤回し謝罪した。
障害の有無が妊娠初期にわかるようにできないか?減らしていける方向になるといい
- 初期に分かる→中絶できる時期
- 減らしていける方向→中絶を選択する人が増える
という以外の解釈が難しい。
委員の考えのスタートが『障がいを持つ子供を育てることは非常に大変だから』に始まっているのでしょうが、福祉の負担が大変だとか社会の役に立たないといった人間性を疑うような意図があったわけではないと信じたいです。
障がい児と接したことありますか?
私は医療関係の仕事をしているのでかなりの頻度で知的障がいのある子供と接する機会があります。でね、健常人が作った健常人だらけの社会で生活していて、いざ知的障がいのある人に接すると人間って何なんだろうねってよく分からなくなるときがあります。
奥山は「考え方が、逆だろう」と指摘する。「手がかかって『大変』そうな子どもたちの姿を見てこの子どもたちが生き生きと暮らせるにはどうしたらいいだろうとどうして、思ってくれなかったんだろうかと」と嘆き、「私たち、おんなじ命を持つにんげんですよー!意識改革してほしいのは教育委員の方のほう!」と呼びかけた。
奥山は「障がいのある人を『不幸』『大変そう』『かわいそう』って思う方まだまだ世の中にはたくさんいるんだろうなーって感じた、ほんとうにかなしい出来事でした!」とつづっている。
これは日々感じることなのですが、『幸せ』とか『悲しみ』とか生物としてのヒトの根っこにあるものを再確認させてもらえる気がするのは確かだと思います。奥山さんも実際子育てをしながら感じているのかもしれませんね。
確かに社会性という、地球という基準点からの相対的な価値観からすれば弱者であり、介助なしには適応できない存在ではあるけれども、基準点をどこかに移動しちゃえばいわゆる健常人のほうが『不幸』『大変そう』『かわいそう』です。
人あっての社会
社会は人が作り上げたものですが、時代によって風潮が違いますね。それでも人がしっかりさえしていれば何らかの自浄作用が働くものです。なんらかとは言え、結局のところは人がすべてに介在するわけですが、人が人を作るその人は障がいのある人であってもいいのではないでしょうか。
この委員のように健常人がすべてを仕切っているとさえ聞こえる傲慢さはいずれ行き詰るんじゃないかな。